薄情なんかじゃない

 

先日、母の友人が亡くなった。

私も小さい頃からよく知っていて、その人は私を自分の子のように思ってくれていた。

もちろんだけど、悲しいし寂しい。

 

だけど、隣で嗚咽を漏らしながら目と鼻を真っ赤にさせて泣く母の隣で私は、なぜだかとても冷静になってしまって、大泣きできなかった。

後から母には冷たいだとか、フンてしてるだとか言われた。

 

全くそんなことはない。

だけど私は、ノルウェイの森で「人は死の中で生きている」(うろ覚え)という直子のセリフを読んでから、死ぬことについての意識が変わった。死ぬことは何も特別なことではない。タイミングなんて人それぞれで、いつ死ぬかなんて誰もわからなくて、年齢も性別も関係なくて、それでも生まれた人全員に、平等に訪れるものが死なんだと思っている。

母は死ぬことについて、順番があって、兆候のようなものがあるものだと多分考えている。だから自分の友人が死んでしまって、もうどうしようもないくらいに悲しんで落ち込んで、生活の何もかもが手付かずになってしまっているんだろう。

母はあれ以来、私に毎日友人との思い出を語るようになった。たまに同じ話もする。そういう時に支えてあげたり励ましてあげるのが優しさなのかもしれないが、私は自分の感情の処理を自分でできるような方法を覚えることも大事なんじゃないかと思ってしまった。もちろん最初の何日かは同情したし、私も悲しかったけれど、もうその期間は過ぎたんじゃないかと思う。それから私自身つい3日前くらいまで1カ月間ずっと忙しくて、やっと一休みできると思ったところに母の精神衛生を保つ為の娘でいなければならない(ような)状況が来てしまって、本当にしんどい。家に帰るのが辛い。やっぱり私は自己中心的なんだろうか。薄情なんだろうか。

 

私は私の精神衛生を保つためや、頭のキャパオーバーを消化するためにこうやってインターネットの波に文章をぶちこんだり、日記を書いたりしている。けど母は人に頼らない方法でそれらを処理する方法を知らない。辛いことを人に話すこともたまにあるけれど、それを何日も続けていちゃダメなんじゃないかと私は思ってしまう。自分の悲しみや苦しみや辛さを人に伝えて解決することって、実際あんまりないと思うから。それから自分の悲しみや苦しみを伝えて同情してもらうことより、面白いことや楽しい感情を共有したいと思うから。どうでもいいことで傷付いたことは話しちゃうけれど。

 

繰り返しになるけれど、結局私が大泣きできないのは、薄情者だからなんだろうか。最近ずっとこればかり考えている。亡くなってしまって悲しい、寂しい。一緒にお酒を飲みたかった。けれど人はみんな死ぬし、死んでいる時間の方が長いし、だから常に面白い方を選ぼうって私は思っているから、なんというか・・・悲しいな、でも私は死ぬまで生きるぞという気持ちが1番に湧いてくる。

 

は〜