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インターネットにおける儀礼的無関心

 

アーヴィング・ゴッフマンの唱えた社会学の一つでかなり有名でしょう。今日大学の授業でこれに関することを少しやったので自分なりに考えてみたけれど、いやそれはどうなのかよってしか思わなかった。

 

まず第一に、個人のインターネットはないんじゃないかと私は思う。

 

ネットワークという言葉を日本語に訳すのは難しいけれど、情報網とかそういうものを指す言葉であって、インターネット上に何かを載せる=誰もがアクセスできる・どこまでも続く綱なのでは。だからもうインターネットは綱なのでは。

 

そこで儀礼的無関心を行えと指示するのは違うでしょう。いやじゃあネット上に自分以外に見られたくないものを載せるなよと言いたくなる。

自分で生み出したもの、文章・音楽・絵などはネット上に残しておかなくても、それ以外にたくさん方法はあるはず。もしネットでしか残せないものだとしても、パスワードをかけておくとか対策はいろいろとできるわけで。

まあこれが唱えられた当時というのはそこまでの技術を誰もが使いこなせる時代ではなかったはずだからまたちょっと違うけど・・・。

 

まあ考えの基本としては

ネットは個人のものではない、自分のものであっても、それは誰もが閲覧可能な自分のものである

という感じです。

 

そして難しくなってくるのが、自分が意図していないところで自分の見られたくない何かが自分以外のせいでネット上に存在してしまっているケース。

今ならリベンジポルノとかそういうものです。

それらについては本当に難しい。ネットの特性からいってどこかで広がるのを止められる可能性はかなり低い。それが怖いところなんだよ。

こういう場合では無礼的無関心は必要になってくるし。

 

結局のところ、ケースバイケースなんだろうな。

こう言ってしまえば簡単ではあるけど、基本的に自分が自分の意思で公開したものについて他人に無礼的無関心をとれというのは、私は間違っていると思う。

このブログのURLをどこかに貼られても、みんな見るなよ!なんて言えないし言わないし、そんなのおかしい。見られたい気持ちがあるからわざわざネット上に残してるわけで。

でもここから個人を特定しようとする行動を起こしたりするのはまた違うからなあ・・・。載っているものに関することをネット上で完結させられないのはだめだよ。

 

とかまあいろいろ考えてみた次第。